それから間もなくして、秀衡は病で亡くなりました。 源義経の愛人・静御前とは?都のトップ白拍子の歌と舞から垣間見える一流のプロ根性がスゴイ, グリム童話「赤ずきん」のあらすじを簡単に!ペロー童話との違いは?オオカミは「男」の隠語だった, 「人魚姫」アンデルセン童話のあらすじを簡単に★最後は海の泡に!原作は切ない悲劇だった, 源義経の正室・郷御前(さとごぜん)とは?義経の最愛の女性は静御前でなく彼女でしょう?. つまり、ぜんぜん恋愛結婚じゃなかったんです。 蕨姫/wikipedia. 義経がチンギスハンと結びつく前に、まず広まったのが「義経生存説」です。 初めて「義経生存説」が世に出て来たのは、1670年です。 幕府の命令で『本朝通鑑』という歴史書を作っていた林羅山が、この本の中で「源義経は衣川で死なず蝦夷地に渡った。 吉野から京都は遠いぞ~! 東北へ向かう郷御前の腕の中には、生まれて間もない娘がいました。 国史大辞典 従者はついていたとしても、ここまできて帰れとは! よく知られているのは、歌舞伎でおなじみの静御前(しずかごぜん)ですね。都随一の白拍子との鳴り物入りの美女設定です。(ほんとのところは分からないので) また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことは頼朝の戦後構想を破壊するものであった[注釈 17]。, そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集めることは、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった[19]。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。, 結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った[注釈 18]。 今でもすごい山、というか山脈ですよー。 常盤御前(ときわごぜん、保延4年(1138年) - 没年不詳)は平安時代末期の女性で、源義朝の側室 。, 阿野全成(今若)、義円(乙若)、源義経(牛若)の母。後に一条長成との間に一条能成をもうける。字は常葉とも[1]。, 『平治物語』等の軍記物語や『尊卑分脈』によれば、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされている。両親については素性が不明(『平治物語』)。, 源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。後に一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生)や女子[2](生誕時期不明)を産んだ[3]。, 義朝の死から一条長成に嫁ぐまでの消息は『平治物語』『義経記』等に記されているが、事実がどのようなものであったかは不明である。軍記物語の『平治物語』『平家物語』などによれば、平清盛に請われて妾となり、一女(廊御方)を産んだとされるが、史実としては確認されていない。, やがて治承・寿永の乱が勃発し、義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。義経が岩倉にいると証言したので捜索したが、すでに逃げた後で房主僧のみを捕らえたとある(『玉葉』)。『吾妻鏡』には同月13日に常盤と妹を鎌倉へ護送するかどうか問い合わせている記録があるが、送られた形跡はないので釈放されたものとみられる[4]。常盤に関する記録はこれが最後である。, 常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因むと伝えられる。, また、かつて東京・渋谷にあった松の老木、「常磐松」には、常盤が植えたことに由来するとの説がある。, 以下は主に『平治物語』『義経記』による物語上の常盤の話である。したがってどこまでが事実であるか不明であるがこの物語がその後の文学や芸術に大きな影響を与えたことは事実である。, 常盤は近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で聡明で一番の美女であったという。後に源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。平治の乱で義朝が謀反人となって逃亡中に殺害され、23歳で未亡人となる。その後、子供たちを連れて雪中を逃亡し大和国にたどり着く。その後、都に残った母が捕らえられたことを知り、主であった九条院の御前に赴いてから(『平治物語』)、清盛の元に出頭する。出頭した常盤は母の助命を乞い、子供たちが殺されるのは仕方がないことけれども子供達が殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願する。その様子と常盤の美しさに心を動かされた清盛は頼朝の助命が決定していたことを理由にして今若、乙若、牛若を助命したとされている。, なお、室町以降に成立したとみられる『義経記』ならびに室町以降に成立した流本系『平治物語』においては常盤に清盛がよしなき心を抱き、常盤に文を送って子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されている(流布本『平治物語』では清盛から子供の命を絶つと言われても常盤は返事せず、母親に説得されて初めて常盤が返答したとある)。しかし鎌倉時代に成立した『平治物語』においては、常盤が清盛から局を与えられ後に女子を一人産んだとの記載があるが、それには常盤が清盛の意に従う事と子供達の助命の因果関係は記されていない。古態本『平治物語』において清盛と常盤が男女関係となったのは子供達の助命決定後の事となっている。なお、『平治物語』諸本においての常盤の言動は、常盤と子供達が姿を消した為に囚われの身になった母親の助命のみに終始しており、子供達の助命を清盛に対して一切申し入れていない。子供達が殺されるのを見るのは辛いから先に自分を殺して欲しいという言動がのみが記されている。また『平治物語』においては子供達の助命の理由が清水寺の観音のご加護であるという点が強調されている。, 『義経記』においては清盛の意に従ったがゆえに子供たちがそれなりに身が立つようになったと記されている。, なお、常盤逃亡談は『平治物語』にくわしいが、この物語はもともと清水寺の観音信仰から生まれたものでもともとは『平治物語』とは別個の物語として存在していたものがやがて『平治物語』に組み込まれていったという見解が強い[5]。一方、義経が頼朝に追われた際に常盤母娘が捕らえられたのも一条河崎観音堂であったことから、常盤が深い観音信仰の持ち主であり、清水寺とのつながりも否定できないとする見解もある[6]。, この常盤の逃避行の話はその後室町期の幸若舞の『伏見常盤』『常盤問答』『笛の巻』などによって発展していくことになり、その発展していった常盤の物語はよりいっそう「強い母」という面が強調されていくことになる[7]。, 『尊卑分脈』の系図には、清盛の八女に常盤の娘として「廊御方」が記されているが、軍記物を読んだ『尊卑分脈』編者が廊御方という存在を作り出したとの説もある。従って常盤と清盛の間に子が生まれていたこと、さらには男女関係があったということに対しても疑問が提示されている(廊御方参照)。, 常盤が清盛と男女関係になることによって子供達の助命がかなったということが、一般的に知られている話である。上記の通り室町以降に成立した物語では常盤が子供たちの命がかかわっているために清盛と男女関係になったということが記されているが、鎌倉時代に成立したとみられる古態本『平治物語』においては子供達の助命と常盤が清盛の子を産んだ話の間には一切の関連性がない。, また、平治の乱において戦闘にまで参加している義朝の嫡男・頼朝の助命が決定していたということ、最近の研究の結果、平治の乱に対する評価が変化して、真の首謀者は藤原信頼で義朝は信頼に巻き込まれたに過ぎず、この乱が源氏と平家の戦いという側面ではとらえられなくなっていること(平治の乱を参照)、清盛に対して義朝の勢力は都における軍事動員力や官位経済力という面においてはるかに遅れをとっていたという事実[8]などから、常盤と清盛に男女関係があろうがなかろうが、常盤の三人の子供の助命に大きく影響したとは考えがたいという見解が強い。[9], 細川涼一は「常盤」(『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』17号、2009年3月)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(, 細川涼一「常盤」(初出:『京都橘大学女性歴史文化研究所紀要』17号(2009年3月)/所収:細川『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版、2013年3月), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=常盤御前&oldid=80128192. 頼朝には十分すぎる理由があったのですが(それはまた別の機会にお伝えしますが)、義経にはさっぱり分かりません。とにもかくにも、源氏のために身を粉にして戦った自分に対するこの冷たい態度はあんまりだと、京に戻った義経は憤ります。 兄への敵意を感じた頼朝は、部下の土佐坊昌峻(とさのぼうしょうしゅん)に追討命令を出し、義経は追われる身となります。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. 彼女が義経に嫁ぐため上洛したのが1184年の秋、激動の年ですよ。 それでも、義経は郷御前を連れて行きたかったのでしょう。 このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。, 10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人・土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、10月18日に頼朝追討の院宣を得た[注釈 19]が、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。, 29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。11月7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解任される。一方11月25日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ[注釈 20]、義経らの追捕のためとして、「守護・地頭の設置」を認めさせた(文治の勅許)。, 義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力[注釈 21]に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、同年6月には、源有綱も大和国で討ち取られた。また各地に潜伏していた義経の郎党達(佐藤忠信、伊勢義盛等)も次々と発見され殺害された。さらに義経に娘を嫁がせていた河越重頼も、頼朝の命令で所領没収の後に殺害された。そうした中、諱を義経から義行に改名させられ[22]、さらに義顕と改名させられた[23]。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしていることを疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。, 藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。この要請には頼朝の計略があった。義経追討を自身が受け、奥州に攻め込めば泰衡と義経は秀衡の遺言通り、一体となって共闘する怖れがある。泰衡に義経を追討させることで2人の間に楔を打ち、険悪な関係を発生させ、奥州の弱体化を図ろうとしたのである。「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明したのも、頼朝自身が義経を追討することができない表面的な理由としたかったためである。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。この義経の行動に関しては、度重なる追討要請により泰衡との齟齬が激しくなったために、京都へ脱出(帰京)しようとしていたのではないかとの推測もある。, この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。, 義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田冠者高平[注釈 22]を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。泰衡は同月、義経と通じていたとして、三弟の藤原忠衡を殺害した[注釈 23]が、結局、直後の奥州合戦で、源頼朝に攻められ滅亡した。, 伝承ではその後、首は藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされ位牌が荘厳寺にある、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である衣川の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。, なお、頼朝は義経や奥州藤原氏の怨念を鎮めるために鎌倉に永福寺を建立したが、現在は廃寺になっている。この寺を巡っては『吾妻鏡』宝治2年2月5日条に、左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経・泰衡を討ったもので彼らは朝敵ではない」として永福寺の修繕を急かす霊夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には義経の名誉が回復されていたことを示している。, 義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、源義朝の九男にあたる。『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父・源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとする説があるが、義朝の末子であることは確かである。, 源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。, 妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平氏滅亡後に平時忠が保身のために差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく由比ヶ浜に遺棄された男児が確認される。, 他には源有綱が義経の婿と称していることから、有綱の妻を義経の娘とする説もある[24][注釈 25]。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州衣川で誅されたと記されており、『吾妻鏡』文治3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とあることから、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっていることから、男児の存在についての真偽は不明である[27]。, 死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人物の義経評を挙げる。, 義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。これは他の歴史上の人物にも共通することで、当時の肖像画の多くは神社仏閣に奉納する目的で描かれたもので、死後に描かれるのが通常である。, 身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かなことは不明である[28]。, 義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の家人・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである[注釈 26]。 「義経を主君として、頼朝の攻撃に備えるように」という父の遺言を無視し、頼朝にビビって義経のいる衣川館を攻め、自刃に追い込んでしまいます。(←自分たちが滅びる布石) 結婚生活どころじゃありませんね! そして、その後、自ら命を断ったと伝えられています。, 亡くなったとき、義経は31歳、郷御前22歳でした。 余談ですが、西行法師が、秀衡と遠縁で仲がよかったこともあり、ちょうどこの頃、秀衡のもとを訪れているんですよ。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. しかし彼女、実は義経の本命=正室ではありません。正室は他の人で、静御前はあくまで二番手という位置でした。, 現代だったら泥沼の予感がひしひしとしますが、そこは当時の結婚観で当たり前のことですから、特に問題はなかったようです。, それでは、静御前と義経、そして今はすっかり忘れられてしまった正室の存在も振り返ってみましょう。, 母の磯禅師(いそのぜんじ)という人が京都で公家を相手に白拍子を斡旋したりしていたそうなので、都の近辺で暮らしていたと思われます。, 白拍子というのは男性の服装である水干(すいかん)や烏帽子、刀を身につけて舞を披露する仕事で、遊女としての側面もありました。, が、出入り先が公家や皇族の屋敷だったため、自然と教養が身についていき、品の良い人も多かったようです。, 磯禅師も自身が白拍子として名を上げていたからこそ、斡旋という難しい役目ができたのでしょう。, そして静御前もまた、母と同じく白拍子としてあちこちの屋敷へ行っていたと思われます。詳しい経緯は不明ですが、その後、京へ滞在中の義経と知り合う機会があり、愛されて妾になりました。, 嫁いだ時期が、源頼朝とのイザコザが置き始めた頃だったので、「スパイだったのでは?」という見方もあります。, しかし、郷御前の母親が頼朝の息子・源頼家の乳母だった縁で、前々から結婚自体は決まっていたようです。, この辺からすると、頼朝も始めのうちは弟を手荒な手段で始末するつもりはなかったのかもしれませんね。, が、静御前は桜の名所・奈良の吉野山で義経から「お前は京に戻れ」と言われ、別れることになります。京都から奈良までは同行させたんですね。, 郷御前はそのままついていくことになりますが、ここで話が大きく分かれるので、まずは静御前に注目してみましょう。, 義経は静御前に対し、当面の足しになるよう、お金と護衛兼世話役の男達をつけてくれました。, が、そいつらが静御前からお金を奪って逃げるというサイテーなことが起きます。なぜ、もうちょっとマトモな人を選べなかったのか、と……。, そんなわけで静御前は初冬の寒い山の中を一人でさまよい、運よく頼朝の命で義経一行を探していた吉野山の僧兵に保護されました。, 多少の詰問はされたようですが、僧兵達は静御前に同情し、鎌倉へ差し出す前にいろいろと便宜を図ってくれたそうです。, そして半月後、まず京都にいた北条時政(政子の父親)に預けられ、そこから鎌倉へいくことになります。, 京都の時政と鎌倉の頼朝との間でいくらか手紙の往来があり、静御前がその母・磯禅師と共に鎌倉へ着いたのは、翌年3月始めのことでした。, このとき静御前は義経の子供を身ごもっていたらしいので、長旅は相当きつかったでしょうね。, 翌4月には「舞を披露せよ」と言われているのですから、ここで当てつけに自害していてもおかしくないほどの扱いです。, 静御前は再三体調不良などを理由に断っていたのですが、北条政子が「京一番の名手の舞を見られないのは惜しい。頼朝様ではなく八幡宮に捧げるために舞ってくれませんか」とやんわりゴネたため、断りきれなくなりました。, 頼朝の立場してみれば、やっと平家を倒して政権を作ろうとしているところに余計な茶々を入れられ、面倒を増やされた相手ですからね。, 「不本意に別れることになった夫を慕う気持ち、私にはよくわかります。私たちだって、昔は似たようなものだったじゃありませんか」, 頼朝は流罪の身から出兵して基盤が不安定でしたし、その帰りを待っていた期間が長かった政子としてみれば、他人事には思えなかったのでしょう。, 頼朝自身がかつて「幼いから助けてやって欲しい」と言われて助けられた身ですから、もし情けをかければいずれ牙を剥かれると考えたのでしょう。, 一応、このときも政子は静御前に味方してくれたそうなのですが、さすがに叶いませんでした。, 静御前の消息がわかるのは、出産から約二ヵ月後、母と共に京都へ帰ったところまでです。, そこまでは鎌倉幕府の公式記録・吾妻鏡に書かれています。だから政子寄りの記述多いんだろう、とも言われていますが……。, その後はどこぞで入水したとか、もう一度義経を追おうとして客死したなどさまざまな説があり、定説と呼べるものはないようです。, いずれにせよ、母である磯禅師は悲しんだでしょうね……。彼女にしてみたら、娘にも孫にも先立たれてしまったわけですから。, 逃亡劇が始まった直後の文治二年(1186年)に娘を産んでいたそうなので、産後の辛い時期に長旅をしていた可能性が高いということになりますね。, それほどタフな女性だったからこそ、義経も連れて行こうとしたのでしょうか。ただ単に、出身が関東であることから返すアテがなく、哀れんだだけかもしれませんけども。, しかし、義経が頼みにしていた奥州藤原氏に裏切られて襲撃されると、郷御前も幼い娘も無事には済みませんでした。, 平泉町金鶏山麓にある郷御前と子どもの墓/photo by usiwakamaru wikipediaより引用, 二人とも義経が自ら手にかけたとされているので、敵に殺されたり連れて行かれるよりはマシだったかもしれませんが……何ともいえない後味の悪さですね。, ちなみに義経にはもう一人、平清盛の義弟・平時忠の娘である蕨姫(わらびひめ)という女性が嫁いでいたともいわれています。, が、時忠が命惜しさに義経へ差し出したというサイテーな経緯だったためか、ロクに記録が残っていません。, しかも「適齢期の娘はまだ使い道があるから、行き遅れてたアイツでもやっとけ」みたいな感じだったらしく、父親からも夫からも大切にされたとは言えません。(´;ω;`), 【参考】 最大の功労者のはずの義経は、なぜか兄の頼朝に冷遇され、鎌倉入りを拒否されます。面会拒否です! 西行は、奥州に向かう前にたまたま鎌倉で頼朝と会ってます。この頃は、西行も秀衡も、もうかなりの高齢です。 源 義経 (みなもとの よしつね) 1159年~1189年 . 源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将。 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄。 仮名は九郎、実名は義經(義経)である。. 地位のある色男の例にもれず、彼も、たくさんの愛人を抱えておりました。 でも、なぜか、歴史ドラマで義経の恋人(妻)と持ち上げられるのは、静御前ばっかりなんですねー。 静御前よりは身分が高かったことは確実ですね。 嫁いだ時期が、源頼朝とのイザコザが置き始めた頃だったので、「スパイだったのでは? 」という見方もあります。 1159年。 平治の乱が起こった年に、 源義経 は生まれます。 父である源義朝はこの乱で敗れて殺され、生まれたばかりの義経は母とともに平清盛に捕えられ、京都の 鞍馬寺 へ送られてしまいます。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。, 「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。, 「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。, 「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。, 「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。, 「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。, 「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。
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